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アルコホーリクの巨星墜つ

 中島らもが死んだ。しかもいかにもアルコホーリクらしい死に方で。(参照
 彼はアルコール以外にも、さまざまな薬物や対象に対して依存症であったと思うが、それでもやはり彼はアルコホーリク、アルコール依存症者と呼ぶのが一番ふさわしいと思う。
 個人差、地域差はあれど、生活保護ケースワークの業務量のある程度の、あるいはかなり大きな部分をアルコホーリクに対する援助業務が占めると思う。(それは保健所のPSWの業務もそうかもしれない。)具体的な生活保護ケースワークの場面を知らない人でも、生活保護のケースワーカーがアルコホーリクのことでいろいろと振り回されているという固定観念は持っているかもしれない。
 自分自身、久里浜病院などのアルコール依存症治療の専門病院に入院するケースに同行したり、近隣とトラブルを起こすケースの家主に謝りに行ったり、酒の飲みすぎで支給日の2日後に保護費を使い果たし、それでも酒が飲みたくてコンビニでウイスキーを万引きをして警察の厄介になったケースの身元引受人になったり、けっこういろいろやっている。最近はめっきり振り回されることも少なくなったけど。
 僕は学部の後半から中島らもを読み始めた。いろいろと読んだけど、一番記憶に残っているのは「今夜すべてのバーで」である。アルコホーリク本人が書いたアルコホーリク小説(本人は単に「アルコール小説」といっていたと思う)の金字塔である。その当時はゆめゆめ自分がアルコホーリクと関わるとも、そして自分自身がアルコホーリクであるともまったく考えずによんで、それなりの衝撃を受けていた。
 生活保護のケースワーカーになって、仕事としてアルコホーリクと関わることになった。まったく予想外のことであった。だけど、仕事としてアルコホーリクと関わることがあったからこそ、僕はこの仕事を楽しいと思い、続けようと思った。
 仕事で最初のころ関わったアルコホーリクは、偶然にもみな自分の父親と近い年齢だった。僕は自分の父親はアルコホーリクではないと思っているが、それでもかなり酒は飲んでいた。酒を飲んで酔っ払っている父の姿は嫌いだった。自分は大きくなったらお酒なんて飲まないと、こどもの時の自分は思っていた。
 最初のころ、アルコホーリクのケースに自分の父を重ねてみていた。自分の父の年齢の人間がアルコールが原因で社会に適応できない、社会から排除されるということは、受け容れがたかった。「まだ若いではないか」(ちなみに僕の父親は1947年昭和22年生)。「酒をやめて身体を治して、仕事をすればいいではないか」、と。
 そのうち、アルコホーリクのケースに自分自身を重ねてみるようになった。自分自身もたびたび問題飲酒を起こしていた。
 自分の担当したアルコホーリクのケースの死を複数経験した後、ようやくアルコールが社会不適応、社会からの排除の「原因」ではないことを身をもって知るようになった。アルコホーリクはこの世からアルコールがなくなっても、何か他の社会的に不適切な対象に依存の対象を移行するだけなのだということを考えるようになった。上手な依存の仕方をアルコホーリク本人が身に付けることを援助することが、生活保護ケースワーカーの仕事ではないかと考えるようになった。
 しばらくしてソリューションフォーカストアプローチと出会い(僕はソリューションは治療技法ではなく、面接技法として利用させてもらっている。どうでもいい話だが)、あながちその考え方も間違えではないことに気づいた。
 そんなことを自分の血肉として考え、技術・技法として仕事に使えるようになるのには5年近くかかった。僕は物覚えが悪いのでこんなもんだろうけど、それにしても生保ワーカーが2、3年ですぐに異動になってしまうのでは専門性もへったくれもない。
 話がそれてしまった。きょうはらも追悼。☆の予定だったが、予定を変更したいとおもう。


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